2013年2月5日火曜日

Heike Monogatari 波の底の都

高校時代の国語の授業で、平家物語を読んだ。
それは原文だったが、安徳天皇入水のこの場面で思わず泣いてしまった。
どんなに古い時代でも、人の心や物事の感じ方は変わらないということを、初めて実感した瞬間だった。



味方が源氏へと寝返り、平家の船は荒波と源氏の攻撃にさらされ、ついに平家栄華の最期が近づいていた。
平家の船に源氏兵が乗り移り、次々と殺されていく。
平清盛の妻であり、また安徳天皇の祖母である二位の尼殿は、覚悟を決めて、安徳天皇を抱きしめた。安徳天皇8歳の齢だった。

「われは女なれど、敵の手にはかかるまじ。安徳天皇のお供をする。御志を持つ人は、急ぎ続きたまえ」

そして、安徳天皇に語りかける。

「この国は、粟散辺土と申し、もの憂いところです。あの波の下にこそ、極楽浄土という、めでたい都があります。そこへ、お連れして参ります」

「波の底にも都がございますぞ」



わずか8歳で歴史の荒波に消えていった安徳天皇は、波の底の都に辿り着けただろうか。




以下「先帝身投」の部分を、
原文、少しの解説を加えた現代語訳の順に引用しました。




平家物語 第十一
「先帝身投」

■原文
`判官これを `八幡大菩薩の現じ給へるにこそ `と悦んで甲を脱ぎ手水嗽してこれを拝し奉り給ふ `兵共も皆かくの如し `ややあつてまた沖の方より海豚といふ魚一二千這うて平家の舟の方へぞ向かひける `大臣殿小博士晴信を召して `海豚は常に多けれども未だかやうの事なし `きつと勘へ申せ `と宣へば `この海豚は見返り候はば源氏滅び候ひなんず `直ぐ通り候はば御方の御軍危ふう候ふ `と申しも果てねばはや平家の舟の下を直ぐに這うてぞ通りける `世の中は今はかうとぞ見えし `阿波民部重能はこの三箇年が間平家に付いて忠を致したりしかども子息田内左衛門教能を生捕にせられて叶はじとや思ひけん忽ちに心変はりして源氏と一つになりにけり `新中納言知盛卿 `あつぱれ重能めを斬つて捨つべかりつるものを `と後悔せられけれどもかひぞなき `さるほどに平家の謀にはよき武者をば兵船に乗せ雑人原をば唐船に乗せて源氏憎さに唐船を攻めば中に取り籠めて討たんと支度せられしかども重能が返り忠の上は唐船には目も懸けず大将軍の窶し乗り給へる兵船をぞ攻めたりける `その後は四国鎮西の兵共皆平家を背いて源氏に付く `今まで従ひ付きたりしかども君に向かつて弓を引き主に対して太刀を抜く `さればかの岸に着かんとすれば波高うして叶ひ難し `この汀に寄せんとすれば敵矢先を揃へて待ちかけたり `源平の国争ひ今日を限りとぞ見えたりける `さるほどに源氏の兵共平家の舟に乗り移り乗り移り水主梶取共或いは射殺され或いは斬り殺されて舟を直すに及ばず舟底に皆倒れ臥しにけり `新中納言知盛卿小舟に乗り急ぎ御所の御舟へ参らせ給ひて `世の中は今はかうと覚え候へ `見苦しき物をば海へ入れて舟の掃除召され候へ `とて掃いたり拭うたり塵拾ひ艫舳に走り廻つて手づから掃除し給ひけり `女房達 `中納言殿さて軍のやうはいかにやいかに `と問ひ給へば `珍しき東男をこそ御覧ぜられ候はんずらめ `とてからからと笑はれければ女房達 `何条の只今の戯れぞや `とて声々に喚き叫び給ひけり `二位殿は日比より思ひ設け給へる事なれば鈍色の二衣うち被き練袴の稜高く取り神璽を脇に挟み宝剣を腰に差いて主上を抱き参らせて `我が身は女なりとも敵の手にはかかるまじ `主上の御供に参るなり `御志思ひ給はん人々は急ぎ続き給へや `とて静々と舷へぞ歩み出でられける `主上は今年八歳にぞ成らせおはしませども御年のほどよりは遥かにねびさせ給ひて御容美しう辺も照り輝くばかりなり `御髪黒う優々として御背中過ぎさせ給ひけり `あきれたる御有様にて `抑も我をば何方へ具して行かんとはするぞ `と仰せければ二位殿稚き君に向かひ参らせ涙をはらはらと流いて `君は未だ知ろし召され候はずや `前世の十善戒行の御力によつて今万乗の主とは生れさせ給へども悪縁に引かれて御運既に尽きさせ候ひぬ `まづ東に向かはせ給ひて伊勢大神宮に御暇申させおはしましその後西に向かはせ給ひて西方浄土の来迎に預からんと誓はせおはしまし御念仏候ふべし `この国は粟散辺土とて心憂き境なれば極楽浄土とてめでたき所へ具し参らせ候ふぞ `と泣く泣く掻き口説き申されければ山鳩色の御衣に鬢結はせ給ひて御涙に溺れ小さう美しき御手を合はせてまづ東に向かはせ給ひて伊勢大神宮に御暇申させ給ひその後西に向かはせ給ひて御念仏ありしかば二位殿やがて抱き参らせて `波の底にも都の候ふぞ `と慰め参らせて千尋の底にぞ沈み給ふ `悲しきかな無常の春の風忽ちに花の御姿を散らし情無きかな分段の荒き波玉体を沈め奉る `殿をば `長生 `と名付けて長き栖と定め門をば `不老 `と号して `老いせぬ扉鎖 `とは書きたれども未だ十歳の内にして底の水屑と成らせおはします `十善帝位の御果報申すも中々おろかなり `雲上の龍降つて海底の魚と成り給ふ `大梵高台の閣の上釈提喜見の宮の内古は槐門棘路の間に九族を靡かし今は舟の内波の下にて御命を一時に滅ぼし給ふこそ悲しけれ


■現代語訳

 四国・九州の兵が次々に源氏に寝返り、平家の船は、荒波と、源氏の攻撃にさらされ、平家の運命は、もはやこれまでと、源平の戦い、ここに極まりました。

 源氏の強者どもが、平家の船に乗り移ってきました。船頭・水夫は射殺され、あるいは、切り殺されて、船の方向を直すこともできません。平家の人々は皆、船底で倒れ伏していました。

 平知盛は、小舟に乗って、急ぎ、御所の御船に参りました。知盛は、「世の中は、今は、これまでと見えた。見苦しいものは皆、海へ捨て、船を掃き清めよ」と命じ、船は、掃いたり、拭ったり、塵を拾ったりしながら、先から尾まで清められました。

 女房たちが「ああ、知盛殿、いくさはどうですか」と問うと、知盛は「ただいま、珍しい東男(あづまおとこ)をご覧に入れましょう」と口にし、からからと笑いました。女房たちは「どうして、この機におよんで戯れを」と、声々に、わめき、さけびました。

 平清盛の妻、建礼門院・平徳子の母、そして、安徳天皇の祖母である二位の尼殿(平時子)は、日頃から覚悟を決めていたので、薄黒い喪服を2枚重ねに着て、ねり絹の長袴を短く着け、三種の神器の「神璽」(勾玉)を脇に抱え、「宝剣」(草なぎの剣)を腰にさし、安徳天皇を抱きました。

「われは女なれど、敵の手にはかかるまじ。安徳天皇のお供をする。御志を持つ人は、急ぎ続きたまえ」

 そう告げて、二位の尼殿は、しずしずと、船端へ歩み出ました。

 安徳天皇は今年、8歳。年よりもはるかに大人びて、姿は威厳に満ち、辺りを照らし輝くよう。髪の毛が多く、ふさふさとしていて、背中に懸かっていました。

 安徳天皇がひどく驚いた様子で、「尼前は、われをどこへ連れて行こうとするのだ」と尋ねました。

 二位の尼殿は、涙をはらはらと流し、幼い君に向かって、話して聞かせました。

「君はいまだ知らないのですが、前世の十善戒行の御力で今、万乗の帝王として生まれました。されども、悪縁に引かれ、御運すでに尽きました」

「まず、東へ向かって手を合わせ、伊勢神宮においとまを申してください。その後は、西へ手を合わせ、西方浄土の迎えがくるように、念仏してください」

「この国は、粟散辺土(そくさいへんど:粟のように小さい辺境の国、すなわち日本)と申し、もの憂いところです。あの波の下にこそ、極楽浄土という、めでたい都があります。そこへ、お連れして参ります」

 二位の尼殿がそうなぐさめると、萌黄色で黄色の強い山鳩色の天皇の御衣を身に着け、御づらを結った安徳天皇は、涙に溺れ、小さく、美しい手を合わせ、まず東へ向かい、伊勢神宮と正八幡宮にいとまをこい、その後、西へ向かって念仏しました。

 二位の尼殿は、すぐさま、安徳天皇を抱きました。

「波の底にも都がございますぞ」

 そう安徳天皇をなぐさめ、千尋の底へ沈みました。

 悲しきかな、無常の春の風。たちまちに花の姿を散らし、いたましきかな、分段の荒き波(六道に輪廻して果報を受ける生死)。安徳天皇の体は沈みました。

 和漢朗詠集に詠われたように、宮殿を「長生」と名づけ長き棲家とし、門を「不老」と号して、老いせぬ鬨と書かれましたが、いまだ10歳にもならずに、海の底の水屑(みくず)となりました。十善の帝王の果報はいうまでもありませんが、雲の上の龍が、ついに、海底の魚となった。宮城で大臣公卿に囲まれ、平家一門を従えた身は、今は、船の中から波の下へ落ち、御身をいっしゅんで滅ぼしたことこそ、悲しけれ。






2013年2月2日土曜日

Frida :)































斎藤茂吉の恋文

入浴中の私を母がしつこく呼んでいる。
すごいものやっている!と言う。
アインシュタインやチェーホフなど偉人達のラブレターをとりあげた番組で、
母はとあるラブレターに、とにかく度肝を抜かれたらしい。

アララギ派の歌人斎藤茂吉が、添い遂げることが叶わなかった運命の女、愛人永井ふさ子にあてた恋文だった。

茂吉52歳、ふさ子24歳の出会いだった。
150通に及ぶ恋文がふさ子に送られた。
読んだら燃やしてほしいと言われていたが、ふさ子が焼いたのはわずかで、130通あまりを大切に手元に残しておいた。

以下ほんの一部を引用する。
もっと美しく過激な表現もあるので、できればまた次回掲載したい。



"ふさ子さん!ふさ子さんはなぜこんないい女体なのですか。何ともいへない、いい女体なのですか。どうか大切にして、無理をしてはいけないと思います。玉を大切にするようにしたいのです。ふさ子さん。なぜそんなにいいのですか。"

"ふさ子さんの小さい写真を出してはしまいひ、又出しては見て、為事しています。今ごろはふさ子さんは寝ていらっしゃるか。あのかほを布団の中に半分かくして、目をつぶって、かすかな息をたててなどとおもふと、恋しくて恋しくて、飛んででも行きたいやうです、ああ恋しいひと、にくらしい人。"

"東横の地下室の隅のテエブルに身を休ませて珈琲一つ注文して、天下にただ一人、財布からパラピン紙に包んで、その上をボル紙で保護した、写真を出して、目に吸ふやうにして見てゐます、何といふ暖かい血が流るることですか、圧しつぶしてしまひたいほどです、圧しつぶして無くしてしまひたい。この中には乳ぶさ、それからその下の方にもその下の方にも、すきとほって見えます、ああそれなのにそれなのにネエです。食ひつきたい!"


これがあの美しい歌を紡いだ歌人斎藤茂吉の恋文だ。
読んだらずっこけそうだ。
まるで思春期真っ只中の男子だ。
これはすごい。
もうバカみたいだ。
バカみたいに、死ぬほどに、ふさ子を想っていたのだ。

どんなに気取った美しい言葉の恋文より、
激しい情愛の中で耳に残る言葉のほうが、遥かににその人を感じ取ることができる。
地べたを這いずるような、絡み合うような情愛と、率直な欲望をぶつけられる愛のほうが、魅力的だ。
肉体を知ることは、まさに相手の心の奥底まで知ることにほかならないし、それを唯一許すことにほかならない。

私と母には、ふさ子がなぜ手紙を焼かなかったか、とても理解できた。

ふさ子は、茂吉がふさ子のもとを離れた後も、生涯独身だった。




Jesus and cakes