2014年6月29日日曜日

杉原千畝に関する個人的なメモ

そして9月5日、ベルリンへ旅立つ車上の人になっても、杉原は車窓から手渡しされたビザを書き続けた。その間発行されたビザの枚数は、番号が付され記録されているものだけでも2,139枚にのぼった。汽車が走り出し、もうビザを書くことができなくなって、「許して下さい、私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています」と千畝が頭を下げると、「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」という叫び声があがった。そして「列車と並んで泣きながら走っている人」が、千畝たちの「姿が見えなくなるまで何度も叫び続けて」いた。

独断で日本の通過ビザを発行し、6000人のユダヤ人を救った杉原千畝。

写真は彼が手書きで発行し続けた「命のビザ」。

老数学者の強烈なエネルギー

最近、異様なオーラとカリスマ性のおじいちゃんがよくカフェに来る。ニコニコ気さくだけど、英語や日本語はあまり通じない。
パニーニとモンブランを食べて終始考え事をしてる。ものすごい集中力で、パニーニが焼けたからとどんなに近くからでも、何度声をかけても、絶対に気づかない。

よく聞いたら、ブルバキ初期メンバーの数学者、カルティエ因子のPierre Emile Cartierだった。

81歳とは思えないエネルギーと体躯で、数学と生涯向き合う為には身体を鍛える必要があるのかもしれない。
頭の中には、数の美しさが無限に溢れているのか。
お会計の時に私が口にした"550"という日本語を、もう一度教えてほしいと言われて教えたら、ずっと嬉しそうに、"ゴヒャクゴジュウ...ゴヒャクゴジュウ"とつぶやいていた。

イラク人市民の目から見つめたイラク戦争

ガサックの講演会のために書いたイラク戦争の資料 
女子高生達にも好評だったみたいで良かったです。
ちょっとガサックをスリムに書きすぎたかな

英語が苦手で教科書を封印した私が、2年間で日常会話ができるようになったワケ

私は英語が苦手だった。
もともと国語の文法の授業が苦手で、今だに”助動詞”や”副詞”などという言葉の意味を理解していない。
中高の英語の授業では、「動詞、助動詞、副詞」など日本語の文法用語が教科書や黒板に踊り、中学1年生の秋頃からさっぱりついていけなくなってしまった。
子供の頃に英会話教室に通って会話を習っていたので、発音だけは残ったが、次第に英語が話せないのが恥ずかしくなって、ついに日本語でしか話さないことに決め込んだ。
大学では沢山留学生の友達ができたが、みんなとは初対面から日本語で話すことにした。相手も日本語留学に来ていた子ばかりで、私の日本語はとても喜ばれた。英語は全く上達しなかったが、他者の宗教や文化を尊重する為のグローバルな視点だけは身についた。
大学を卒業した3年ほど前から、日本語が全く話せない人と一対一で向き合わなければいけなくなり、どうしたって 英語を話さなければいけなくなった。
高校の教科書を開いてみたが、やっぱり頭に何もはいらず、こんな風に話すようになった。
①ひたすら相手の言葉を聞き、リスニング。
②普段の会話やSkypeチャットなどで、分からない単語があるとすぐに辞書をひく。
③単語を使ったフレーズや新しい言い回しは、すぐにオウム返しして自分の言葉として使ってみる。
④音楽や映画の言い回しを、会話ですぐに使ってみる。
最初の1〜2週間は電子辞書を駆使しても自己紹介と、好きな色や食べ物、家族のことしか話せなかったが、相手はいつも熱心に耳を傾けてくれて、私の間違いを全て許してくれた。
徐々にチャットや電話での会話も増え、赤ちゃんのように単語やフレーズを一語ずつ使いながら習得していった。

現在は簡単な日常会話、哲学や芸術など自分の専門分野の会話、接客英語、リスニング、簡単な通訳はできるようになった。
また、私の英語習得方法からは、以下の特徴が現れてきた。
①英文法は未だにさっぱり分かっていない。
②英語で意味を的確に掴んでいて会話で使えている単語を、日本語に言い換えることができない。
(新しく聞いた英単語の日本語の意味を知らなくても、会話ですぐに使えてしまう。)
③間違いを恐れていない。まず使ってみる。そして相手の会話をリスニングしながら、間違った用法を修正している。
④語彙力がない。専門外の英単語はあまり覚える機会がない。
→今度こそまじめに単語帳などで暗記してボキャブラリーを更に増やす必要がある。
⑤日本語で特に得意だった作文やエッセイの執筆がだんだんうまくいかなくなる。日本語の言い回しがすぐに出てこなくなった。反対に英語ならすぐに説明できることもある。

あんなに話せなかったのに、急にどうして!?とよく聞かれて、客観的にまとめてみました。
赤ちゃんみたいな英語ですが、コミュニケーションの幅はぐんと広がりました。
参考までに...

工学部チェックの謎

名古屋大学内で働き始めて気づいたこと、それは、工学部男子のチェックシャツ着用率の多さである。ES館周辺を歩く男子はチェック、またチェック。
また名駅の中華料理屋で、男子15名、初老のいかにも教授な男性2名という集団の宴会に遭遇したことがあるか、そのうち8名がチェックシャツ着用だった。私が、あれはきっと工学部の大学生だと母に言うと、好奇心旺盛な母が聞いてしまい、結果やはり名城大学工学部3回生だった。どうもネットでも”工学部男子=チェックシャツ”は既に定説となっているらしい。
かし、なぜ?
なぜチェックシャツじゃないとダメなんだ?(°_°)
気になって仕方なくて丁度良い観察対象を探していたのだが、いた、一番身近に。
社会基盤工学モザファー・ガサックさんである。
いつみてもチェックシャツかTシャツを着用している。チェック、チェック、チェック、Tシャツ、チェック、という感じである。
現在所持しているシャツ6枚は全てチェックシャツだった。
理由はわからないという。ただ好きなのだそうだ。でも好きなチェックと嫌いなチェックがあるらしい。私にはまだ区別がつかない。
専門分野である高等数学、衝突力学、社会基盤工学から考えて、図形的な直線の美しさが好きなのではと仮定する。
赤や青のラインはまるで座標軸のようである。
なんとな〜く、理解できるような気もする。
ちなみに6枚のチェックシャツのうち5枚は祖国で愛用していたものである。
工学部チェック、国境を越える。
謎はまだまだ深い。
 

シリア人の友人アフマッドの話

私のシリア人の友達アフマッドは、大きな身体に牛乳瓶底みたいな度の強いメガネ、はにかんだ笑顔とシャイな性格、優しい心の持ち主で、日本で機械工学を学ぶ大学院生だ。
いつも私のカフェで勉強したり、会いに来てくれる。
辛いこと、悲しいことがあった時は必ず、カフェにそっと来て、私と少し話して、カプチーノをカフェの片隅で1人で飲んで、そっと帰る。
この間はとても疲れた様子だったので、「アフマッド、どうした?」と声をかけると、
「大学の時の先生が、戦闘で昨日亡くなったんだ....」と答えた
ゼミでお世話になった仲良しの先生が、反政府軍の兵士として戦闘に参加し、亡くなったらしい。
先生どうして、戦闘になんか参加したんだ。クレイジーだ、、言って、アフマッドは大きなため息をついた。

「えりこ、戦争なんてやっぱりだめなんだよ。戦争なんてどうして人はしたがるんだろう。僕はもう、帰る国がない。僕の実家アレッポを見て、もう何もない。政府は毎日飛行機で空爆をしてくる。僕の友達は沢山死んだ。沢山死んだんだよ。」

私はちゃんと話を聞こうと、一字一句噛み締めた。シリアの都市、実家があり、まだ家族全員が逃げずに残っているアレッポの写真を検索して見せてくれた。昔の美しいアレッポを見せてくれようとしたけど、人の死と、もう見る影もない崩れ切ったがれきの写真しか見つからなかった。
彼の優しい人柄からは想像を絶する状況を改めて目の当たりにして、アフマッドを慰める言葉が見つからず、私は一緒に悲しみを感じようとすることしかできなかった。

実は今日また、アレッポにいたアフマッドの祖父が亡くなった。

シリアに帰ることができず、日本でも大学内で教授たちのイスラム教の文化に対する無理解や、中東南アジアの学生に対する見えない差別にさらされている。
日本に来たらできると夢みていた日本人の友達。でも日本人学生はみな、トーエックの点数は持っていても英語を話す勇気がないか、話せない。みんな見て見ぬ振りか、無関心を貫いているように感じる。

彼は平和なはずのここでも、とても孤独だ。

せめて私は、耳を傾けているよアフマッド。
せめて私は、戦争による死、破壊、苦しみを知らなくちゃいけないと、目を背けずに見ているよアフマッド。
せめて私は、あなたの話を聞いているよ。

写真は全部アレッポの現在の様子。
どうして阿部さんは軍隊を持ちたいのかな。
どうしてプーチンはミサイルを発射したのかな。
戦争を現実として感じてみる必要がある。
人を殺すってどういうことか。兵器を持つってどういうことか。
”国”の威信のため、”国”を強くするためって言うけど、国じゃなくて、そこにいるのは無数の人間なんだよ。
家族がいる、無数の人間なんだよ。
大事なのは国じゃない。人と人が仲良くすることでしょ。知ることでしょ。



私と恋人とのニーチェ問答

「ニーチェのことが好きか嫌いか」居酒屋で夜ご飯を食べているとガサックが私には聞いた。
私は、「彼は嫌い」と答えると、ガサックは「わぁ!良かった!僕も嫌いなんだ!」と答えた。何故最近本屋はニーチェの著作をおしゃれでちょっとインテリな読み物として勧めるのかな、ニーチェはおしゃれな読み物なんかじゃないよ。若い男性が持っていて、ニーチェが好きなんて言うとかっこいいのかな、とガサックが言うので、私はそうだよ、と答えた。
私はマルクス先生の終末論の授業が好きすぎて4年間で3回も受講したので、ニーチェについては大変に印象に残っていた。

ニーチェはプロテスタント教会の牧師の息子として生まれたが、キリスト教が大嫌いだった。それまでの中世ヨーロッパの人々は、イタリアの芸術に代表される通り、神というものを道徳、人生の意味、絶対的社会基準としてきたが、ヨーロッパ産業革命の時代を迎えて、人々の心は宗教を離れ、より物質的な、テクノロジーや仕事、金といったものに人生の価値基準を見出すようになった(まさしく現代の日本社会)。そのような状態をさして、ニーチェは「神は死んだ」と言った。
神は死んだのだから、次は何を価値基準とするか、そこに、”超人”思想が生まれる。人類自らが全ての人間を超越したスーパーヒューマンとなることによって、死への恐怖や人生の意味といった宗教が生まれる地平をも超越し、自らが新しい神のような存在となること、ニーチェはそれを目指した。
しかしこの”超人”思想には、様々な問題がある。超人は弱気をくじき常に強者である必要があり(弱者は淘汰されるべき存在)、完全無欠な身体と精神を持ち(身体障害者、精神病患者、同性愛者は不完全な存在)、常に優れた存在でなければならなかった。この思想がムッソリーニを夢中にさせ、ヒットラーのアーリア人優性人種説に用いられた。
ニーチェはそうして、超人思想を人生の価値基準として、ひねくれた一生を送ったが、この思想の破綻はニーチェの死をもって証明される。彼自身が神という人間の存在理由を否定したことで、結果的にニーチェは超人にもなり得ず、彼は自らが何故この世界に存在するのか、何故生まれ、何故死にゆくのか、その意味を見失い、遂に狂ってしまった。
ガサックはニーチェの死因を性病だと思っていたらしいが、重篤な精神疾患により精神病院にて死を迎えた、というのが私が記憶している史実である。

私がひとしきり演説を終えると、ガサックは塩焼きの鯛の切り身を私の口に放り込んだ。そして話題は干した洗濯物を畳まなくちゃ、というところへ移った。