ちょっと私の頭の中のとある側面からひっぱりだしてみる。
昔から中島らものようなおっさんがすきだった。
ダメなんだけど、よれよれなんだけど、どうしようもないんだけど、もうどうにもできないような崇高な叡智を持ってしまっている人。
そんな人に常に憧憬をいただいてきた。
今たまたま、地図上でえいっ!!って指さして選んだ「玉造」という街に住んでいるが、
色んなアーティストやクリエイターの集う密かな隠れ家のような街で、
コテコテの商店街もあって、
ちょっと北に進むとそこはもうバラックの連なる焼き肉の街、鶴橋で、
らもさんもここ玉造に住んでたとのちのち知った。
よれよれの彼を見かけたことがある、という若い人に沢山出会えてうれしい。
あなたはもういないが、
私はここでらもさん、あなたの面影を見ている。
『僕にはわからない』中島らも著・双葉文庫
という本を本屋で買って
らもと言う人に私が何故ここまで惹かれるのか、その理由にしても良い、
すばらしいエッセイを見つけた。
率直に超感動する。
結婚しても良い。こどもだけ産んでもよかった。それぐらいしびれる。
死ぬのが恐くなったらこれを病の床で読んでもらおうと決意している。
お葬式でも読んでもらおう。
以下ちょっと抜粋である。
人は死ぬとどうなるのか
「丹波哲郎氏の映画「大霊界」を不覚にも見てしまった。」
という一文からはじまる。相変わらずバカバカしくて笑える。
「死後の世界について、「嘘でもいいから」教えてほしい、というのは人間の「業」みたいなものなのだろう。この世の生き物の中で、自分が「生きている」ということを自覚できるのは人間だけであって、「生きている」ことの反対の概念として「死んでいる」状態というものが想定される。その「死んでいる状態」についてさまざまな憶測が生まれてきて、そこに宗教の成り立つ地平があるわけだが、考えてみるとこれは人間のロジックや言語による思考が生み出す錯覚のひとつではないだろうか」
うむ。。。
嘘が存在しない世界で、「死ぬのがこわい」とこわがる病床の母親に、「死後の世界」について嘘をついてしまう主人公が出て来るアメリカ映画があって
私自身宗教をかなりリベラルな立場から研究していたからこそ、
天の国や死後は、そうして生まれた、人類史上最も優しい嘘だったのかもしれないと考えたこともあったなぁ。
らもさんはバタイユの「連続」「不連続」の思想に人間と言う種の生命体をあてはめる
「人間は極端な言い方を許してもらえるなら、別に死ぬ必要は無い。一個の巨大な「原人間」みたいなものがあって、それが新陳代謝を繰り返しながら、半永久的に生きていく、という存在形式だって考え得るのだ。だた人間および地球上の生物はその形態を選ばなかった。多数の個体に分かれて、各個体は死によって消滅するが生殖によって種としての生命は連続していく方法を「選んだ」わけだ。」
原人間、ようするにアメーバの生態である。
しかし原人間が消滅するとひとつの種としての個体も消滅する。
氷河期やビックバンに生き残るために、人は各個体に分かれて、種としての消滅を防いでいる。
「たとえばひとつの個体を考えるときに、「死後の世界」ではなくて、個体の死からさかのぼっていく考え方をしてみよう。僕なら僕という個体の経た時間をさかのぼっていくと、僕はどんどん若くなっていき子供になり赤ん坊になる。それをもっともっとさかのぼっていくと一個の受精卵になる。僕の僕としての存在はここまでである。ただそのむこうにあるのは死ではなく限りない生なのだ。僕は精子と卵子に分かたれる。精子をたどっていくとそれは僕の父親になり、卵子は母親である。同じ方法で父親を、母親をさかのぼっていくと倍々ゲームに枝分かれしていく先にはほぼ無数の「生」がある。死はどこにもない。そこにあるのは輝く「生」の海であり、種の全体の命がそこにある。無限の生が収れんして僕という結節点を結び、僕を越えたむこう、つまり未来にはまたそれと同じ無限の生が広がっていく。 」
名文である。
泣きそうになる。
そこにあるのは輝く「生」の海である。
最後にいかにもらもさんらしい、地を割く閃光のように強靭な、彼自身の「生」への言葉で締めくくられている。
「僕という個の存在は、僕の精子が一人の女性の卵子と結合した瞬間にその存在意義を完遂している。あとは生きていてもいいし、生きていなくてもいい。(中略)僕は個であると同時に種の一部である。一にして全であり、全てであると同時に何者でもない。」
あー、
中島らもを好きでよかった。
昔から中島らものようなおっさんがすきだった。
ダメなんだけど、よれよれなんだけど、どうしようもないんだけど、もうどうにもできないような崇高な叡智を持ってしまっている人。
そんな人に常に憧憬をいただいてきた。
今たまたま、地図上でえいっ!!って指さして選んだ「玉造」という街に住んでいるが、
色んなアーティストやクリエイターの集う密かな隠れ家のような街で、
コテコテの商店街もあって、
ちょっと北に進むとそこはもうバラックの連なる焼き肉の街、鶴橋で、
らもさんもここ玉造に住んでたとのちのち知った。
よれよれの彼を見かけたことがある、という若い人に沢山出会えてうれしい。
あなたはもういないが、
私はここでらもさん、あなたの面影を見ている。
『僕にはわからない』中島らも著・双葉文庫
という本を本屋で買って
らもと言う人に私が何故ここまで惹かれるのか、その理由にしても良い、
すばらしいエッセイを見つけた。
率直に超感動する。
結婚しても良い。こどもだけ産んでもよかった。それぐらいしびれる。
死ぬのが恐くなったらこれを病の床で読んでもらおうと決意している。
お葬式でも読んでもらおう。
以下ちょっと抜粋である。
人は死ぬとどうなるのか
「丹波哲郎氏の映画「大霊界」を不覚にも見てしまった。」
という一文からはじまる。相変わらずバカバカしくて笑える。
「死後の世界について、「嘘でもいいから」教えてほしい、というのは人間の「業」みたいなものなのだろう。この世の生き物の中で、自分が「生きている」ということを自覚できるのは人間だけであって、「生きている」ことの反対の概念として「死んでいる」状態というものが想定される。その「死んでいる状態」についてさまざまな憶測が生まれてきて、そこに宗教の成り立つ地平があるわけだが、考えてみるとこれは人間のロジックや言語による思考が生み出す錯覚のひとつではないだろうか」
うむ。。。
嘘が存在しない世界で、「死ぬのがこわい」とこわがる病床の母親に、「死後の世界」について嘘をついてしまう主人公が出て来るアメリカ映画があって
私自身宗教をかなりリベラルな立場から研究していたからこそ、
天の国や死後は、そうして生まれた、人類史上最も優しい嘘だったのかもしれないと考えたこともあったなぁ。
らもさんはバタイユの「連続」「不連続」の思想に人間と言う種の生命体をあてはめる
「人間は極端な言い方を許してもらえるなら、別に死ぬ必要は無い。一個の巨大な「原人間」みたいなものがあって、それが新陳代謝を繰り返しながら、半永久的に生きていく、という存在形式だって考え得るのだ。だた人間および地球上の生物はその形態を選ばなかった。多数の個体に分かれて、各個体は死によって消滅するが生殖によって種としての生命は連続していく方法を「選んだ」わけだ。」
原人間、ようするにアメーバの生態である。
しかし原人間が消滅するとひとつの種としての個体も消滅する。
氷河期やビックバンに生き残るために、人は各個体に分かれて、種としての消滅を防いでいる。
「たとえばひとつの個体を考えるときに、「死後の世界」ではなくて、個体の死からさかのぼっていく考え方をしてみよう。僕なら僕という個体の経た時間をさかのぼっていくと、僕はどんどん若くなっていき子供になり赤ん坊になる。それをもっともっとさかのぼっていくと一個の受精卵になる。僕の僕としての存在はここまでである。ただそのむこうにあるのは死ではなく限りない生なのだ。僕は精子と卵子に分かたれる。精子をたどっていくとそれは僕の父親になり、卵子は母親である。同じ方法で父親を、母親をさかのぼっていくと倍々ゲームに枝分かれしていく先にはほぼ無数の「生」がある。死はどこにもない。そこにあるのは輝く「生」の海であり、種の全体の命がそこにある。無限の生が収れんして僕という結節点を結び、僕を越えたむこう、つまり未来にはまたそれと同じ無限の生が広がっていく。 」
名文である。
泣きそうになる。
そこにあるのは輝く「生」の海である。
最後にいかにもらもさんらしい、地を割く閃光のように強靭な、彼自身の「生」への言葉で締めくくられている。
「僕という個の存在は、僕の精子が一人の女性の卵子と結合した瞬間にその存在意義を完遂している。あとは生きていてもいいし、生きていなくてもいい。(中略)僕は個であると同時に種の一部である。一にして全であり、全てであると同時に何者でもない。」
あー、
中島らもを好きでよかった。
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